有限会社ACAハセガワでは、貴女の為に世界で一つのハンドバッグをオーダーメイドで作り上げます。ARS樹脂、プラスチック、アルミニュウム以外の革・皮製品のあらゆる修理の相談に乗ります。

江戸袋物の系譜

徳川幕府の政策の基本はいわば文治主義でした。徳川二百五十年余にわたる
政権の安定は、経済の発展の基盤の上に立つたもので、当初の米中心とした経済から、貨幣、
商品を中心とする商業経済にへとその重点を移行させた物と言えましょう。そして、それまで
の地域的に限定された大名などに統制された領域経済から、全国規模の経済へと拡大された。
この結果、江戸・大阪と言う大都市圏を中心として商業特に問屋・卸業などの経済的勢力が、
大きく發転する結果となったと言えましょう。これらの商品の製造の為、色々な職人衆が生ま
れました。特に、元禄年間から職人衆の増加は目覚ましく袋物の流行もこの時代からと言われ
ています。この時代になるとフクロモノ=嚢物(袋もの)が一般に使われるようになりました。

もちろん、日本の袋物の歴史は古くからあり、特に、三塚古墳から出土した金属付属のついた
袋物などは現在に通ずるデザインの姿すら見られる。ただし、この品物は大陸から渡来した物
とも考えなくてはならないが、素晴らしい遺物である。(詳しくはインターネットで検索可能、
(2002.1.23報道発表されています。)

ともあれ、日本での代表的な品物である煙草入れを見ても、徳川初期から庶民のあいだに喫煙
の習慣が流行するようになり、腰提型煙草入れが流行るようになった。当時は”叺=カマス型”
(蒲=がまの穂で編んだ二つ折りの袋)入れが売れ筋になり、続いて、大名の参勤交代或いは
諸国寺社の参詣、物見遊山のための路銀入れ、札入れ(紙入れ)財布、合切袋、巾着袋、筥迫
(はこせこ)などの類であった。

これらの職人は布帛(ふはく)職人と革職人とに分かれ、革職人は鹿革と羊革を主な材料として
製作した。従って、現在の革袋技工の大きな流れとしては、布帛製品の製造から転向した者と
革職人から(革煙草入れ、布製懐中物諸製品等)から転向した物の二系統が在ります。

近代袋物縫製工技術の系統は、参考に別掲の系統表の通りで橘信濃を祖とする者が最も著名で
有る。信濃は徳川将軍家お抱えの袋物師で、俸禄は米百俵を賜り、格式としては士分と同様で
苗字帯刀を許されて、玄関先には常に高張提灯を立てていたと言われています。屋敷は日本橋
通り四丁目に構えていたという。

橘信濃の弟子にはふきりや長次郎が居た。長次郎は幕末頃が最も盛んな時期で、下谷坂本二丁
目に居住し、布帛、革双方を扱って、製作し、その技術は自他ともに日本一と言われ、その
門下の名工と言われて苗字を名乗った職人には河野栄次郎、田中鉄之助、島村林之助、花岡
林蔵、花岡喜太郎、北村宗次郎らが居た。その他、数十人の同門が居た。長次郎は明治四年
十月、七十八歳で亡くなった。

後のこの弟子の中から二つの流派がうまれ、河野栄次郎の河野派、花岡林蔵の花岡派である。
ハセガワの祖、長谷川富五郎は花岡林蔵を師匠として学んだ。そして、明治初期にいち早く
外国人、外国と商売をしていた方方、教師として来日して外国人家族から故障したバッグを
預り修理をしながら西洋式袋物=ハンドバッグを学び始めた。
その工程はパラパラ漫画の作り方を使った。写生力がモノ言った事であった。